人の成長とは
「成長する」といったとき、その主体は二つに大別できるだろう。一つは肉体、もう一つは精神である。
肉体の成長。背が伸びる、体重が増える、など人間に限らず生物として当然ともいえるものである。体格に限らず、握力、足の速さなどといった身体能力もこちらに分類されるだろうか。これらは見た目にもわかりやすいし、一定の法則に従って数値化できるため、他者との、あるいは以前の自己との比較が容易である。自分は誰某より背が1センチ高い、高跳びで自己記録を5センチ更新した、など、数値が大きくなるほど成長したことを示している。もっとも、体重やら年齢やらどうまわりやら、あまり成長しないほうがいいものもあるが。
精神の成長。精神――心と言い換えてもいいだろう――は肉体とは異なり、おそらく人間特有のものであろう。あるいは我々が認識できないだけで他の生物も持っているのかもしれないが、ここでは人間のみが有しているものとする。
この精神の成長というもの、なんとなくイメージは浮かぶものの、具体例を挙げろと言われると非常に困りものである。性格が大人っぽくなった、我慢強くなった、などとそれらしいものを挙げることはできるが、果たしてこれらが本当に精神の成長なのかというと疑問符を付けざるを得ない。
精神構造は人によって千差万別だから他者との比較はまず不可能、過去の自己との比較も極めて困難である。「大人っぽい」ほうが「子どもっぽい」よりも人付き合いなどはうまいだろうが、だからといって「大人っぽい」ほうが「成長」しているとは断言できまい。我慢強いことは社会で生きていく上では有利だろうが、それが精神にとってプラスであるかというとそうでもない。
要するに、大まかな概念はあるにも関わらず、何をもって「成長」と定義すればよいのか皆目見当がつかないというのが正直なところである。アリストテレス曰く「人間は社会的な動物である」から、社会生活において有利になる方向への変化を成長と定義することもできるだろうが、一般にそれは自己の抑圧を意味することが多く、時にそれは破滅的な行為へつながることもある。「精神の成長」とは何か、それを知るためにいろいろなことを経験したり考えたりするのが本当の意味での精神の成長に繋がるのかもしれない。